千曲川 上流地帯 の 旅
大正十二年十月(1923)38歳
牧水は大正十二年十月二十八日から十一月十二日まで千曲川上流地帯を旅しました。 この旅で梓山渓谷で木賃宿に泊りました。 その時のことを 「木枯紀行」に次の様に書いています。 「木賃宿とは云っても古びた堂々たる造りで、三部屋ばかり続いた一番奥の間に通された。 煤びた、広い部屋であった。 先づ炬燵が出来、ランプが点り、膳が出、徳利が出た。 が、何かなしに 寒さが背すじを伝うて離れなかった。 二間ほど向うの台所の囲炉裡端でもそろそろタ飯が始まるらしく、家族が揃って、大賑かである。 わたしはとうとう自分のお膳を持ってその焚火に明るい囲炉裡ばたまで出かけて仲間に入った。 最初に来た時から気のついていた事であったが、此処では普通の廐でなく、馬を屋内の土間に飼って いるのであった。 津軽でもそうした事を見た、余程この村も寒さが強いのであろうと二疋並んでこちらをを向いている愛 らしい馬の眼を眺めながら、案外に楽しい夕餉を終った。 家の造り具合、馬の二疋いる所、村でも旧家で工面のいい家らしく、家人たちも子供までみな卑しくな かった。 翌朝、「切れるような水で顔を洗い、囲炉裡にどんどんと焚いて、お茶代りはんにやとうの般若湯を嘗 めていると、やがて味噌汁が出来、飯が出来た。味噌汁には驚いた。 内儀は初め馬の株桶で大根の葉の切ったのか何かを掻きまぜていたが、やがてその手を囲炉裡に かかった大鍋の漸くぬるみかけた水に突っ込んでばしゃばしゃと洗った。 その鍋へ直ちに味噌を入れ、大根を入れ、斯くて味噌汁が出来上ったのである。 馬たちはまだ寝ていた。 大きい身体をやや円めに曲げて眠っている姿は、実に可愛いいものであった。 毛のつやもよかった。 これならお前たちと一つ鍋のものをたべても左程きたなくないぞよと心の中で言いかけつつ、味噌汁 をおいしくいただいた。 寒しとて 囲炉裡の前に 廐作り 馬と飲み食ひす この里人は まるまると 馬が寝てをり 朝立の 酒わかし急ぐ 囲炉裡の前に まろく寝て 眠れる馬を 初めて見き かはゆきものよ 眠れる馬は のびのびと 大き獣の いねたるは 美しきかも 人の寝しより |